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中国留学日記
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家族の北京旅行感想文
百聞は一見に如かず

 北京は暑かった。地図で調べると緯度は秋田県とほぼ同じ。温暖化の影響か。それにしても暑い。街を歩く人は皆、ミネラルウォーターをぶら下げていた。
 この夏、私は「中国」という国を少し知った気がする。しかし、まだあやふやで、ぼやけている部分も多くあるが。
 父が北京に留学したのは今年の春。半世紀を生きた父は、人生の折り返し点にいたのだ。そして今自分が本当にしたいことを実現するため、一人で旅立った。
 私が小さい頃から父は独学で中国語を勉強しており、四・五年くらい前からは近くの公民館での中国語講座にも通っていた。
 しかし、私は中国語があまり好きではなかった。多分、父の聴く中国語のCDやラジオ講座のボリュームがあまりにも大きく、幼い私にはそれが雑音にしか聞こえなかったためであろう。
 そんなこんなで、かれこれもう十数年、父は中国語とつきあってきた。そして今年の春、すべてが中国漬けの生活、父がずっとあたためつづけてきた夢を実現することになったのだ。

 そして夏休み。メールでやりとりしていた父は今、どんな生活をしているのか、中国語は上達しているのかを確かめるべく、いや、中国三千年の歴史を感じるため、いや、やはり本心はグルメ・観光である。目的はとにもかくにも、母、妹、私の三人は父の暮らす中国北京へと飛び立った。
 父は変わっていた。いい意味で。生き生きとしていた。そう私の目には映った。
 二泊三日、父は事前に観光の日程を考えていてくれた。私たちをいろんな所へ連れて行ってくれた。父は大活躍だった。父がいなければ、こんなにあちこち行けなかったにちがいない。タクシーの運転手に行き先を伝えたり、地下鉄の切符を買ったり、入場券を買いに行ってくれたり。しかし、やたらと不自然に笑っていたように思う。気のせいか。

 一日目の天安門。毛沢東が、いた。テレビで見ていた、あの光景。門の前を通る車は、テレビで見るよりハイスピードだ。自転車も多い。中国の自転車はほとんどが、日本人の目から見ると、とてもボロである。新品は盗まれるから、古いのにあえて乗るそうだ。それにしても、日本で完全にゴミであるものが、中国では大切に使われている。この差は何なのか。
 父の大学はとても広く、スーパーや公園、プール、食堂、アパート、いろいろな学部の校舎、その他もろもろ一つの街のようであった。
 食堂で食べた夕食は、家族四人で約百元。日本円で約千五百円。メニューを見ても何なのかよくわからず、予想外の料理も出てきた。オレンジジュースが一本十元だったので、二本たのむと1.5リットルのペットボトルが出てきた。多すぎるので一本にした。とにかく安く、ボリュームがある。それにおいしい。学生食堂はけっこう穴場だ。

 二日目は、とても長かった。あの有名な万里の長城を歩いた。いや、登ったと言った方がつじつまが合う。そのへんの山に登るより、はるかにきつい山登りだ。しかも、ほとんどが急な登り坂や下り坂、段差の大きな階段で、距離にしてみれば一〜二キロなのにその倍の倍くらい歩いた気分だった。こんなに長くてしっかりしたものをつくった昔の人をすごいと思うが、こんな場所で本当に戦っていたのだろうかと疑ってしまう。移動するのもやっとなのに、本当に敵を攻撃することができたのだろうか。よっぽど足腰が強かったのだろう。
 そのかわり、眺めはとても良かった。ずっと先まで石の道が続いている。空もきれいで歩いた甲斐があった。風が心地よかった。
 一つ気になったのが、記念撮影をしている人のやり方である。狭い通路を行く人、帰る人、大勢行き来する中、幅の端と端に立って思い思いのポーズをとっている。その度に、私達はその”撮影会”につき合わされるのである。歩いている私達のことなんかおかまいなしである。母と私はプリプリ怒っていた。隅の方で流れに沿って、縦に並んで撮ればいいものを。多分、これが交通渋滞の最大の原因である。これもお国柄なのだろうか。
 夜は劇場のあるホテルで京劇を観た。甲高い声で、女の人が何やら歌っているのか、叫んでいるのか。古典でやった漢文の話であった。何をやっているのか私にもわからなかったので、前の席に座っている六・七歳のフランス語らしき言葉をしゃべっている男の子に理解できるのだろうかと思っていたが、案の定、みんなが拍手喝采の中、一人男の子はブーイングをしていた。しかし、その後体格のよいパフォーマーが四・五人出てくると男の子は一変し、眠気がふっとんだのか真剣に前を見ている。バク転や棒を使ったパフォーマンス、口ではうまく表現できないが前半のよくわからない劇は何だったのだろう。けっこうすごかった。そして、ふたたび男の子の拍手も加わった大きな歓声の中、劇は幕を閉じた。

 最終日は、タクシーで公園に行った。中国のタクシーは運転座席と客席の間に鉄格子のあるものが多い。料金の高いものにはついていなかった。日本でも、そのうち取り付けられるのではないか。
 朝の公園は結構老人が多い。六十五歳以上は無料なので毎日のように来ている人もいるそうだ。それにしても元気なお年寄りばかり。扇子を持って踊ったり、編み物をしたり、中国将棋をしたり。おもしろいことをしている人がいた。地面がほど良く水を吸うタイルになっているので、そこを半紙がわりに極太の筆にバケツの水をつけ、マス目に一文字ずる漢字を書いている。失敗してもそのうち消えるし、何回も書ける。タイルも知らぬ間に磨かれているかもしれない。いい趣味だ。

 今、北京は六年後のオリンピックに向けて開発が進んでいる。歯抜けのようなビル群があっという間に東京のような街になっていくのだろう。中国からの情報も、より多く日本に入ってくるだろう。
 隣の国ということで親近感も持っていたが、習慣や考え方は大きく日本と違っていた。インターネットなどで膨大な情報が手に入る中、やはりその地に行ってみないとわからないこと、行ってみて初めて知ったことが多くあった。「百聞は一見に如かず」は本当にその通りである。あまりにも私は世界を知らなすぎる。
 地図帳にはたくさんの国名が載っている。しかしそこから得られるものは、位置や地形、山脈や川の名前などである。その国の文化は、その国へ行って実際に体験しなければわからないものである。
 今回の旅で、私の地図帳には北京の地下鉄やビル、万里の長城、天安門などの表面的な建物だけでなく、自転車に桃をのせて売り歩く人、公園の卓球台で熱戦を繰り広げる人々など、その地で生きる人々の姿も描き加えられた。そして北京での生活を楽しむ父の姿も。